聖書のみことば
2022年11月
  11月6日 11月13日 11月20日 11月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月6日主日礼拝音声

 宮清め
2022年11月第1主日礼拝 11月6日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第11章12〜25節

<12節>翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。<13節>そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。<14節>イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。<15節>それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。<16節>また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。<17節>そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」<18節>祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。<19節>夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。<20節>翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。<21節>そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」<22節>そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。<23節>はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。<24節>だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。<25節>また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

 ただいま、マルコによる福音書11章12節から25節までをご一緒にお聞きしました。17節に「そして、人々に教えて言われた。『こう書いてあるではないか。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった』」とあります。
 本日の説教題を「宮清め」としました。「宮清め」というのは、当時のエルサレム神殿の境内に四つあった庭のうち一番外にあって最も広かった「異邦人の庭」という場所で、主イエスがなさったことを指して言われます。当時、異邦人の庭にはユダヤの各地や外国から巡礼に来た人たちのために、神殿で献げ物にする動物や鳩を売る屋台や、神殿への献金を用意するための両替人たちが店を連ねていました。主イエスはそのようなものを異邦人の庭から一掃して、この場所を本来この場所に与えられていた通りの役目を果たすように、つまり神を礼拝するために来た異邦人たちがこの広い庭から奥の神殿の聖所の建物を仰ぎ見ながら心静かに礼拝を捧げる場所とするように、騒がしい家畜や鳥や両替人のジャラジャラするお金を追い出したことを指して、「宮清め」と言われます。15節に言われている通りです。「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された」。

 このように書かれていますので、「宮清め」と聞きますと、つい、主イエスが神殿の境内で商売をしていた人たちを相手に大立ち回りを演じておられるというイメージが思い浮かびます。そしてそれと同時に、どうして主イエスがたったお一人で、大勢いたに違いない商売人や両替人を相手に立ち向かい広い庭から追い出すことができたのだろうかという疑問も湧いてくるのです。この問いは、今日でも多くの学者たちが頭を悩ます問いで、なかなか納得いくような答えの出ない謎の一つです。
 しかし聖書がここで語ろうとしていることは、恐らく、主イエスがどのようにこれをなさったかということよりも、「なぜ、これをなさったか」という理由の方だろうと思います。どのように行われたのかを思う以前に、主イエスがなぜそれをなさったのだろうかということが問われなくてはならないと思います。
 そしてその答えについて、17節の「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」という主イエスの言葉が一つの手がかりを与えているように思います。神殿境内の庭でいけにえの動物や鳥を商っていた人たち、神殿に収めるためのお金を両替していた両替商たちは、確かに、生活のため商いによって利益を得ていました。しかしそれは決して暴利というほどのものではありません。むしろこの商売人たちは、神殿に来る巡礼者の役に立っているという側面がありました。ですから、彼らの商いが主イエスによって「強盗の巣」と言われたことについては、気分を害したに違いないのです。しかしそれはともかくとして、主イエスがここでなさろうとしたことは、この場所が、「すべての国の人の祈りの家」として再建されることでした。「宮清め」については、どうしてそれが可能だったかという細々した点では不明なことも多いのですが、しかしこの御業によって、祈りの家が打ち建てられることが目的だったということを、主イエス御自身が語っておられるのです。

 これは、旧約聖書イザヤ書56章を思い浮かべながらおっしゃっておられるのですが、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と主イエスはおっしゃいます。ところが、エルサレム神殿の現実はそれからほど遠く、現状は強盗たちの巣窟のようになっているため、主イエスは境内から商売人や両替人を一掃する宮清めをなさったということになります。
 主イエスがここでおっしゃろうとしていることは、分かるような気もするのです。礼拝の場所のすぐ脇の所に、商店や露店が店を連ねていて、商売の呼び込みの声や、動物のいななく声や、両替するお金の音、そういう音が響いていれば、確かに気が散って、礼拝に思いが向きにくくなるだろうと思います。ですから、そうならないように商売人たちを境内から追い出そうとしたという行いは分かるような気がするのです。
 しかしその一方で、少し考えてみると、確かにこの日は商売人や両替人を首尾よく境内から追い出すことができましたが、しかしこれはいつでも上手くいくとは限らないのではないでしょうか。この日に限っては大勢の商売人たちを境内から締め出しましたが、次の日が来れば、締め出された人たちはまた再び境内の中に戻って来るのではないでしょうか。そして今度は、主イエスに追い立てられないように知恵を絞って商売人同士が連携し合いながら境内の中での商いをしていく、恐らくそうなったに違いないのです。殊に、主イエスが十字架の上に磔にされ、この地上において手出しできない状態になってからは、以前と変わりなく異邦人の庭で商売が続けられたのではないでしょうか。そしてそうだとすると、主イエスのなさった「宮清め」は一日限りのことで、結局は意味をなさないということになりはしないでしょうか。

 そうではありません。主イエスはこの日、それまで続けられてきた動物犠牲による献げ物の礼拝の時が、もはや終わりを告げているということをお示しになったのです。
 そもそも主イエスは、どういう目的でエルサレム神殿においでになったのでしょうか。過ぎ越しの祭りに間に合うように、主イエスはエルサレムへおいでになりました。主イエスは 御自身を過ぎ越しの小羊として献げるため、エルサレムに来られたのです。動物の犠牲は、たとえどんなに見事に育ち、高価な動物であっても、完全な献げ物にはなりません。献げる人間の思いの中に、完全に神に従い切るのではなくて、絶えず神から離れ、神抜きで生きてしまおうとする心の傾きがある以上、人間には決して完全な献げ物を献げることはできないのです。
 ところが、そういう人間の、神に対する二心を心の底からお詫びしていけにえを献げることのできるただ一人の方がいらっしゃいます。その方が、全ての人間の罪のために御自身を献げる—そのために主イエスはこの時、エルサレムにおいでになったのです。
 ですから主イエスはエルサレムに、人々が動物のいけにえを献げる礼拝を守るようなつもりでおいでになったのではありません。御自身を完全な神へのいけにえとしてお献げになる時、そこではもはや、不充分な動物の犠牲は不用となるのです。ですから主イエスは、それらのいけにえや両替人の台を神殿の外に押し出してしまわれます。そうやって、動物のいけにえを献げる礼拝の時の終わりをお示しになりました。そして人々に教えられるのです。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家なのだ」と。
 まさしく主イエスその方こそが、私たちのささげる祈りを正しく神の御許へと持ち運んで下さる方です。主イエスこそが、私たちを神の方に向けて下さり、神に届くお祈りをさせて下さるのです。思い出したいのですが、私たちはお祈りの時、最後に何と言っているでしょうか?「このお祈りを、イエスさまのお名前によっておささげします」、「イエスさまのお名前を通しておささげします」と祈るのではないでしょうか。主イエスこそが私たちを神へと正しく向かわせて下さり、神との間柄を結んで下さる方なのです。主イエスは「宮清め」によって、どんなに高価な動物も、主イエス御自身の犠牲の代わりにならないことをお示しになったのでした。

 このことは、宮清めの出来事の前後に語られている一本のいちじくの木をめぐる出来事においても示されています。夜を過ごされたベタニアからエルサレムへおいでになる途中、主イエスは空腹を覚えられ、一本のいちじくの木を御覧になりました。そして実を探しましたが、季節でないので実がなっていなかったことを確かめられると、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」とおっしゃいます。すると翌日、その木は枯れてしまったという出来事です。
 ペトロの思い出話のように語られているこの出来事は、宮清めの記事の前と後に記されていて、ちょうど絵画の額縁のような役置を果たしています。即ち、前後に書かれているいちじくの木の話も、宮清めの主題を指し示すような意味を持っているのです。このいちじくの木の出来事は、一体何を語るのでしょうか。
 この日、主イエスは空腹を覚えられたと、まず言われています。主イエスが空腹になられたと聞くと、主イエスが公生涯にお入りになられる前、荒野でサタンから誘惑された時のことを思い出す方がいらっしゃるかもしれません。マタイによる福音書4章2節以下のところに記されていたことです。空腹を覚える主にサタンが近寄り、石をパンに変えることを提案します。するとその時、主イエスはこうお答えになりました。マタイによる福音4章4節に「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とあります。
 主イエスのお感じになる飢えは、パンの飢えだけではありません。パンの飢饉ではなく御言の飢饉—即ち、神の御言がもはや人々の間で顧みられなくなり、御言を真剣に説き明かそうとする努力も、またその説き明かしを真険に聞こうとするあり方も、人々の間から失われてゆく—御言によって慰めを受け、勇気を与えられて生きようとする代わりに、もっと手近な気休めやその場凌ぎのごまかしによって、辛さや苦しみを忘れて生活しようとする—そういうあり方が一般的になり、人々の間に根をおろす時に、御言は語られることも聞かれることもなくなり、御言の飢饉が訪れます。上辺だけは非常に盛んに神殿に人が集まり犠牲が献げられているようなのですが、そこに集う人々は、実際には神の真実な約束など分からなくても良くなってしまっている—そして御言に聞く代わりに、自分たちの楽しみや喜びのプログラムばかりを追いかけるようになっている—それが御言の飢饉の姿です。主イエスは、石をパンに変えるように誘惑するサタンに向かって、石は石でしかなく、本当には人間を養わないことを教えられました。

 主イエスがベタニアからエルサレムに向かう途中で御覧になったいちじくの木は、葉ばかりが盛んに茂っていて実がなかったのですが、それは、セレモニーとしての献げ物ばかりが盛大に行われ、しかし、神の御言に聞いて真剣に生きようとする姿勢が既に失われていた神殿の礼拝を表しています。主イエスは、そうした形ばかりの献げ物に代わる真の献げ物として御自身を献げようとして、エルサレムに入っていかれるのです。ですから、神殿の境内から動物の献げ物を追い出されるのです。今からは主イエス御自身が全ての人間のために献げられる、真の献げ物になって下さるからです。
 実のなっていないいちじくは、そのように、神の御言に聞こうとせず御言を求めようともしなかった神殿の礼拝を表しています。主イエスがおいでになるまでは、この木はここに立っていて盛んに葉を茂らせていました。しかし主イエスがおいでになると、実のないことが明らかとなり、枯れていくのです。
  勿論、こういう主イエスのなさりように抵抗を感じる方はいらっしゃるでしょう。主イエスのなさる奇跡は、他の場合には、必ず命を応援し、癒したり勇気づけたり助け出したりする方向で働きます。主イエスが命を枯らせるような仕方でなさる奇跡は、このいちじくの木をめぐっての奇跡だけなのです。
 それだけに、この出来事はこれを聞く人に戸惑いを覚えさせます。けれども、主イエスが救い主として御自身を献げ御業をなさろうとする時に、その主に従い、御業に用いられようとしない営みは、たとえ今の一時は盛んなように思えるとしても、減んで行くことになります。命の源は、主イエス・キリストその方だからです。

 今年の教会研修会で、「教会がキリストの体であり、教会の頭はキリストである」ことを覚えました。私たちは頭である主イエス・キリストに結ばれて生きる者となります。主イエスが「御言に聞き従おうとする実がどこかにないか」とお探しになる時に、まだ季節ではないとかその他の様々な言い訳をして御言に聞かないあり方を正当化する時、私たちも枯れてしまうことになります。心から御言に聞こうとすること—たとえ完全に理解するということではなくても、わずかでも御言を求め続けること、そのようなあり方、そのような実りを、主イエスは私たちの上にも求めておられるのです。

 主イエスの御言に聞くところにこそ、命があり、力も勇気もそこから沸いてきます。いちじくの木が枯れた後、主イエスは驚いている弟子たちに、信仰と祈りと赦しを持ち続けるように教えられました。22節から24節に「そこで、イエスは言われた。『神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、「立ち上がって海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる』」とあります。主イエスはベタニアからエルサレムに向かって上ってゆく道中、このように言われました。「この山」というのは、エルサレムが建てられているシオンの山に違いありません。その山が海に飛び込むというのは、どこかの海というのではなくて、ガリラヤ湖のことでしょう。
 今は頑なで、自分たちだけで盛大に祭りを祝っているエルサレムですが、やがて栄華は過ぎ去り、いちじくの木のように枯れていくことになります。しかし、それで終わりではないのです。弟子たちが真険に祈り、信じるならば、エルサレムの山全体が動いてガリラヤ湖に飛び込むことになると、主イエスはおっしゃいます。頑な町と、そこに生きる全ての人々が湖に降って、そこで洗礼を授けられ、もう一度神の御前に生きる者になるという幻を、主イエスはこの時、弟子たちに告げられました 。

 先々週、松本筑摩野伝道所に伺い、礼拝をささげ、午後から「身近な人への伝道をどうするか」という主題で教会修養会の講師をさせて頂きました。その修養会に先立って伝道所の人たちにアンケートがされていて、その中に「家族など身近な人のために祈っていますか」という設問がありました。その答えは、「祈っている」「時々祈っている」という答えが多く、「祈っていない」という回答はなかったのですが、その中にこんな答えがありました。「祈ってはいるが、あの人はテコでも変わらないだろう」。まさしく、そう思うのだろうなと思いました。けれども主イエスは、「あなたがたが祈って信じるなら、あのエルサレムの山全体がガリラヤ湖に下り、多くの命を得られるのだ」とそうおっしゃいます。主イエスは宮清めをなさり、人間の思いから献げる供え物が無力であることを示されただけではありません。御自身がそれに代わる真の献げ物となって下さり、祈りの家を建て直して下さいます。そして決して悔い改めることがないと今は思える人にも、新しく生きる命の入り口を備えて下さるのです。

 ですから主イエスは、主の十字架によって罪を赦され、新しく生きる者に相応しいあり方をするようにと、弟子たちを招かれます。25節に「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、救してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」とあります。
 これは、「あなたの罪の赦しは、最初から決まりきっている」ということではありません。私たちが実際に隣人の過ちや罪を赦す時、そこで赦しが本当に起こるということを主イエスは教えられます。私たちは祈りをもって、祈りに励まされながら、赦しと愛を実際に生活の中にもたらしてゆくのです。
 自分が辛い思いをさせられた相手を赦すことは、簡単ではありません。どんなに「赦す」と口で言い、また赦そうと思っても、私たちは辛かった思いや怒りが繰り返し兆すような執念深いところがあります。とても相手を心の底から赦すことなどできそうにありません。本当に誰かを赦そうと思う人は、きっと、そういう思いを経験するでしょう。
 しかし、それでも赦すのです。たとえ不完全だと思っても、また繰り返し嫌な思いが頭をもたげても、その都度、そのところで赦します。なぜなら私たちは、主イエスの十字架によって自分の罪を赦されているからです。
 罪を赦し、新しい命を歩ませようとなさるところに、神の深い憐れみに満ちた御心があります。私たちは、その神の憐れみと慈しみによって、とりなされ、ここから新しい命を生きる群れとされているのです。

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